八幡和郎のトンデモ歴史観を斬るにょ

 八幡和郎の『歴史の定説100の嘘と誤解』とかいう本を読んだにょ。
 基本的に八幡和郎という人は「歴史は資料に書いてあることがすべて」であるから、そこに「書かれていない」謎なんてものはないという、まるでお役所仕事のようなスタンスの人だにょ。
 この本も史書に書かれていることを疑うなというスタンスで、世間で歴史の謎と呼ばれていることを、実に退屈な解釈で「解き明かした」「誤解を解いた」という自己主張みたいな内容だにょ。

 とはいえ、相変わらず江戸時代に悪意を持ってるとかいう以外は、史料がそれなりに揃ってる時代についてはあまり変なことは書いてないにょ。とはいえ、江戸時代に対する誹謗中傷は相変わらずだにょ。

 例えば、幕末、京都守護職の会津藩主・松平容保が市中の警備に新選組を雇ったことに関して

 京都府警の応援に来た福島県警がヤクザに下請けさせたようなものです。(p197)

などと書いて貶めてるわけだけど、そんなこと言えば、公務はすべて大名の自己負担だった幕政下で、遠方の会津から京都に警備のために連れてこれる藩士の数なんて限られただろうし、雨後の筍のように次々に現れる薩長のテロリストに対応するには新選組のような組織を利用するのが現実だったにょ。
 いうまでもなく、別に新選組はヤクザものを現地調達したような組織ではなく、もとは将軍・徳川家茂の上京に先立って京都での警備のために組織された浪士隊が元で、出自は浪人や農民、町民上がりの有志であるにょ。
 従来なら幕府直属の旗本・御家人が担うはずの仕事を平民中心の組織に委ねているというところで、長州の奇兵隊ほど徹底してはいないけど、幕府も相当に変わってきてるという事実を示してるにょ。

 また、昭和の軍国体制について、薩長の元老支配が終わったあとの軍部の主要人物がたまたま維新の時の幕府側の藩の出身者だからといって

 維新の精神を引き継いだ近代的な軍人でなく、ひとりよがりの美学にこだわる古い武士の軍隊になったときに日本は誤った選択をしたのです。(p208)

などとしたり顔で書いてるにょ。
 しかし、昭和の軍人たちはみな明治に近代化された軍隊で育ってきた人たちで、武士の思考なんてものは微塵も持ってなかっただろうにょ。昭和の陸軍に長州の藩閥の名残が見られなくなったのは、欧州で第一次世界大戦の戦場を視察した岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎たちが、このままの陸軍では近代戦争の国家総力戦は戦えないと、(出身地だけで昇進が決まるような)古臭い藩閥体制を排除していったからだにょ。
 昭和の軍部が失敗したのは、別に長州閥を排除したからとか、旧幕府側の出身者が要職についたからというのではなく、実務組織であるべき軍隊が官僚体制になってしまって融通がつかなくなったからだにょ。
 例えば、日清・日露戦争の頃には比較的柔軟な人事を行っていた日本軍だけど、太平洋戦争のような国家存亡の状態になっても平時の年功序列の人事しかしなくなってしまったにょ。軍隊に限らず、組織が長く続くとこういう官僚体制化は起こるものだにょ。それは長州閥の支配が続いても同じだっただろうにょ。

 そんな感じで八幡和郎の江戸時代に対する悪意はいつもの通りだにょ。
 悪さ余って可愛さ百倍なのか、江戸時代の鎖国を貶し、秀吉の大陸進出がそのまま続けば欧米列強のアジア進出はなかっただろうとか、いきなり架空戦記の世界にでもなったような与太話を書いてたりするけど、歴史の逆転はそんなに簡単ではないと思うにょ。

 さて、八幡和郎の歴史観に関して前から気になってたのは古代史についての割り切り方にょ。
 万世一系について、崇神天皇や応神天皇や継体天皇のところで王朝交代なんか起こっていないというのは、それはそれでそういう解釈が有力であるのは確かにょ。だから王朝交代はなかったという主張をとやかくいうつもりはないにょ。
 とはいえ、『記紀』の記載それ自体に矛盾がないから「史実」だという決めつけは間違ってるにょ。自己矛盾が無いというのはいわば必要条件であって、「史実」であることを証明するには、他の史料の裏付けがあるという十分条件を示すことが必要だにょ。その十分条件を明確に示す史料がないから長く論争が続いてるわけだにょ。

 八幡和郎はアゴラの記事とかで、日本に文化をもたらした帰化人はほとんど漢族だから文化が朝鮮から来たわけではないと、さも当然のごとく書いてるのが気になってたにょ、あすかが知らないだけで、最近の歴史学の定説はそうなってるのかと疑問に思ったりしてたのだけど、この本を読んでよくわかったにょ。

 単に『新撰姓氏録』に書かれている帰化人系氏族の由来で、漢族が一番多いからということだったみたいにょ。
 『新撰姓氏録』が編纂されたのは平安時代になってからの815年のことだにょ。古い帰化人系氏族だと、日本に来たのはもう何百年も前のことだにょ。高句麗も百済も滅びてしまって、嘘を言っても確かめようがない時代に作られたものにょ。当然、自己申告だろうから盛ってると考えて当然にょ。さすがに百済の滅亡とともにやってきた百済の王族や豪族の家系は誤魔化しようがないだろうけど、それ以前に自発的にやってきた帰化人、とくに馴染みの薄い高句麗系や半ば敵国である新羅系の帰化人が、自分をよく見せようと漢族を名乗ったとしてもおかしくないにょ。
 ところが、八幡和郎はこの自己申告のルーツを完全に鵜呑みにしてしまってるらしいにょ。だから、

 わが皇室は、公式の系図によれば、始皇帝のDNAを受け継いでいます。(p127)

なんて自慢げに書いてるにょ。
 これは上皇陛下の母である香淳皇后の母親が、古代の帰化人氏族である秦氏の末裔の島津氏の出身であることからだにょ。まあ、秦氏が秦の始皇帝の子孫を名乗っていたということはよく知られていることだけど、歴史学の常識としては秦氏は百済系帰化人として話半分に扱ってるものだにょ。

 そんなわけだから、八幡和郎の書いてる古代史絡みの話は、話半分の与太話ぐらいに思っておいたほうが良いにょ。
 他には日本史以外の世界史関係の記述とかでもツッコミどころはいろいろあるのだけど、いちいち挙げていくと大変なので、ここまでにしておくにょ。


体調管理は本人の責任というのが令和時代の常識だにょ

 昭和のボケ老人が書いたのではと思えるような記事をJBressで見掛けたにょ。

   部下の精勤を咎める大阪府知事の不見識
   黒死病化するコロナ蔓延、 広がる「感染者差別」を許すな!

     https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59832

 このご時世にフィリピンに旅行して新型コロナに感染して、発熱状態のまま勤務を続けていた職員のことを注意した大阪府知事のことを誹謗してるにょ。
 体調が悪くても出勤してる職員は職務に熱心なので偉い。部下の体調に気付いて適切な処置をとっていない上司や、それを管理できていない府知事のほうが悪いという、いつの時代の話なのかわからない主張が述べられてるにょ。

 そりゃ昭和の昔なら、少々体調が悪くても出勤するというのは美学だったかもしれないし、会社や上司が部下のことを生活面まで気にかけてみてくれるという「職場は家族」という理想的な価値観が生きていたのかもしれないけど、そんなものはバブルの崩壊とともにとっくに消えてしまって、平成すら終わった今の令和の時代にそんな思想は通用しないにょ。

 自分の体調管理は自分で責任を持つというのが、今の社会の常識だにょ。昭和の昔には体調不良を訴えても「這ってでも出て来い」という無情な上司が普通にいたのかもしれないけど、今、そんなこと言ってくるのはブラック企業の上司だけにょ。無理に出社を強要したりすれば、その上司の方が会社での立場が悪くなるにょ。

 新型コロナウイルスじゃなくても、例年のインフルエンザでも社内での感染を防ぐために、罹ったら出勤するなというのが今の社会の常識だにょ。ましてやフィリピン帰りなら(とくに流行はしていなくても)風土病的な感染症のリスクも有り得るのだから、少しでも体調の異変を感じたなら出勤を控えるというのが当たり前の話だにょ。

 記事を書いてる伊東乾って人は、音楽家なのか大学教員なのか知らないけど、普通に企業や官公庁で勤務した経験なんかないだろうから、現代の勤労社会の常識が無いのは仕方が無いかもしれないけど、知らないことに関して偉そうに他人を避難するような記事を書くのはやめた方がいいと思うにょ。
 どこかで見覚えがある名前だと思ったら、以前に身長の確率統計を誤用して変な記事を書いてた人だにょ。

 府知事の叱責は当然であって、それに昭和脳の理屈で難癖つける方がおかしいって話でしかないにょ。

万世一系と王朝交代説を考えるにょ

日本国紀:陛下は神武天皇の子孫でないのか①

 百田尚樹『日本国紀』に継体天皇が王朝交代をしたような記述があるのに、八幡和郎が万世一系を否定する材料はないということを書いてるにょ。
 どっちもどっちなのであすか的にはどうでもいい話なんだけど、話のネタとして考えて見るにょ。

 万世一系というのは物語にょ。皇室の始まりが神話まで遡る歴史書でしか伝えられない日本にとって、それを科学的事実だとして肯定する材料も、歴史を書いた時代の朝廷が作った虚偽だという材料もどこにもないにょ。
 そもそも日本の歴史がどこから始まるかによって万世一系も王朝交代も意味が違ってくるにょ。神武東征以前に大和を支配していたという長髄彦が実質的な王朝を築いていたとしたら、神武天皇の即位は王朝交代以外の何者でもないにょ。
 万世一系も王朝交代も、記紀に記された物語の定義や解釈の問題以外の何者でもないということだにょ。

 そういう前提に立った場合、記紀を作った人々が「あるべき姿」として認識していたのは王朝交代のない万世一系だろうと思えるにょ。したがって記紀には歴史事件としての明確な王朝交代は記されていないにょ。現在の天皇は始祖である神武天皇に遡れるように記されてるにょ。ただし、その記述が歴史的事実なのか単なる帳尻合わせなのかというの別の問題にょ。

 古代の王朝交代というと多く語られるのは崇神天皇、応神天皇、継体天皇だにょ。
 崇神天皇の場合は和風諡号「はつくにしらししみまきのすめらみこと」の「はつくにしらしし」が神武天皇の「はつくにしらすすめらみこと」の「はつくにしらす」との共通性(初めて国を治めたという意味)、漢風諡号に「神」が付いている(他には神武、神功皇后、応神のみ)、神武以外の先祖が「欠史八代」という事績の記録が残っていない天皇しかいないという点から、王朝交代というよりも事実上の初代天皇とみなされることが多いにょ。
 ただし、漢風諡号は「日本書紀」より後に淡海三船によって付けられたものだから、記紀の書かれた時代には存在していないことに注意が必要だにょ。(なので、本来の記紀には神武天皇とか崇神天皇とかいう記述はない)

 応神天皇はその誕生からしてミステリアスだにょ。新羅征伐の神託を受けた仲哀天皇がそれに従わなかったために神罰を受けて怪死、妊娠中の神功皇后は代わって新羅を討伐し、帰国後に応神天皇を出産。大和にいた応神の異母兄2人が皇位継承を巡ってこれを迎え撃とうとして争ったにょ。
 神功皇后が新羅を討伐したのじゃなく、新羅からやってきて仲哀天皇を殺害し、その皇子たちを滅ぼして自分の息子の応神を天皇にしたとするなら、これは明らかな王朝交代だにょ。これは一世を風靡した騎馬民族征服説と結びつけるのにも都合が良いので、王朝交替説では一番有力なポイントだにょ。

 継体天皇は応神天皇に比べたら地味な存在かにょ。日本史上で一番暴君として記録されてる武烈天皇が死んだ時に直系や近縁に後継者がいなかったので、ずっと先祖にさかのぼって応神天皇の子孫に当たる遠縁の継体天皇が迎えられたという話にょ。
 記録が文書として残されてる時代ならともかく、そうでない時代に100年以上も前に遡る出自に信憑性があるかどうかというのが論点だにょ。とはいえ、継体が即位から20年近くも大和に入ることが出来なかったとか、先代の武烈の暴君性があからさまに殷の紂王を意識したものだと考えると、記紀の執筆者が意図的に王朝交代を匂わせてるという可能性もあるにょ。
 とはいえ、初めて歴史の編纂が行われたという聖徳太子の時代の推古天皇の祖父にあたる人なので、さすがに当時としても記憶に新しい時代のことだからあからさまな嘘は書けないと思うにょ。
 殷周時代の中国の易姓革命を擬えたような武烈が暴君だったという記述は、何らかの事情によって武烈の直系や近縁に皇位を継承できなかったことに対する正当付けかもしれないにょ。

 八幡和郎は百田尚樹が確実視する継体天皇の王朝交代を否定する証拠として、武烈の死後に継体を迎える前に、応神天皇の先代である仲哀天皇の子孫を迎えようとしたという記録を挙げているにょ。そもそも仲哀と応神の間に王朝交代があったのなら応神の子孫である当時の王朝が、仲哀の子孫を後継者に迎えようとするはずがないということにょ。また、そのことが継体が正しく応神の子孫であって王朝交代が起こったのではないということらしいにょ。
 この八幡和郎の説は一見、もっともだと思えるにょ。ただし、継体の前に後継者として迎えようとしたとされる仲哀の子孫の倭彦王という人物が、そういうもっともらしい辻褄合わせのために創作された人物である可能性は「倭彦王」という無個性の一般名詞的な名前からしておおいにあるにょ。

 あすか個人としては継体が応神の子孫だということは割と信憑性が高いと思うにょ。何より推古天皇の祖父という(記紀のもととなった聖徳太子の歴史編纂から見て)時代の新しいものであるということと、あえて武烈を暴君として記録し、易姓革命を匂わせる部分があるというところにょ。万世一系の物語を紡ぎたいなら、武烈が暴君だとかいう(朝廷のマイナスイメージになるような)記述は要らないにょ。
 今で言う分家による本家の乗っ取りというようなことは起こったのかも知れないけど、記紀の論理ではそれは王朝交代ではないということだにょ。歴史を下って、天智天皇の子孫と天武天皇の子孫による皇位の奪い合いとか、南北朝合一後に南朝が根絶やしにされても、それらを王朝交代とされていない以上、これは万世一系の範囲内ということだにょ。

 ただし、応神の時代に王朝交代があった可能性は非常に高いと思われるにょ。
 歴史の編纂が始まったとされる聖徳太子の時代の推古天皇から、日本書紀が完成した元正天皇(の孫の孝謙天皇)の時代まで、女性天皇が非常に集中している時代だにょ。つまり記紀は女性天皇が普通にいた(というより男性天皇より多い)時代に作られた歴史書なので、その内容に影響を受けているのは当然だと思うにょ。
 翻って記紀を読んだ時に女性の存在を強く感じるのは(推古とか皇極とか持統という実在の天皇の記述を除けば)皇祖神である天照大神と神功皇后の存在だにょ。当時の女性天皇の存在価値からしたら、神武天皇の母親あたりにそのような存在がいてもおかしくはないのだけど、神武の前後には(お伽噺的な神話伝説的存在を除けば)政治的リアリティのある女性は存在しないにょ。
 神話と歴史の接合点にいる神武天皇からは、皇祖神の天照大神はそんなには遠くはないけど、記紀の記述は神話時代と歴史時代で明確に区別されているので、神武天皇と天照大神には直接的な関係はないにょ。
 なので、神功皇后の存在というのは記紀において非常に際立ってるにょ。

 さて、当時の女性天皇は概ね、然るべき男子の後継者が若年である時に中継ぎ的な役割を担っていたとされるにょ。そして、それを象徴的に描いたのが神功皇后だにょ。事実、現在では歴代天皇には数えられていないけど、記紀の当時は神功皇后は天皇として扱われていたにょ。
 つまり、仲哀の正統後継者である応神が成長するまでの中継ぎを担ったのが神功皇后ということを強く印象づけることで、現在(当時)の女性天皇の存在の理由付けをしてるにょ。この点を見れば仲哀と応神の間に王朝交代はなかったという八幡和郎の主張は間違っていないにょ。仲哀と応神の間に王朝交代があったのなら女性天皇の正当化には使えないにょ。

 ただし、これは仲哀を前の王朝の最後の天皇と考えた場合にょ。あすかはそうじゃなく、王朝交代は1代前、成務と仲哀の間で起こってると考えるにょ。その根拠は仲哀の父とされる日本武尊の存在だにょ。
 古代日本の建国期における悲劇の英雄とされる日本武尊だけど、その事績は単独の皇子ではなく、多くの無名の英雄の象徴的存在として描かれたとされているにょ。しかし、もしそうなら日本武尊はなぜ仲哀の父に設定されているのだろうかにょ?
 もし皇室が万世一系なら、建国期の英雄はもっと以前の時代に設定されていておかしくないにょ。それこそ欠史八代の時代に設定されてておかしくないにょ。もし崇神が初代なら、建国期の遠征事業が景行と日本武尊の時代に集中しすぎてるにょ。
 つまり、日本武尊は成務以前の、神武王朝や崇神王朝とは別個の王朝の建国期の英雄として描かれてると考えたほうが自然だにょ。

 おそらく応神の先祖は神武王朝や崇神王朝の下で働く武人だったんだろうにょ。朝廷の下で実際の軍務を担って版図を広げてきた事績が日本武尊の事績としてまとめられてるんだろうにょ。応神の父である仲哀はその武人集団の長であり、権勢の強かった景行の後を継いだ成務が凡愚で人望を失っていくのにつれて、新たな指導者になるべく決起を求められるも、それに踏み切れないまま朝廷の命ずる熊襲討伐の最中に急死したにょ。
 幼い応神は武人集団に祭り上げられるままクーデターの首謀者になって政権を乗っ取り、やがて成長して新しい王朝を開始したにょ。周の武王が父親を文王とし、魏の曹丕が曹操を武帝としたように、応神は父親の仲哀を王朝の初代に置いたにょ。

 つまり、日本武尊は応神王朝の先祖の事績を象徴した英雄であり、実質的な王朝の初代である応神は父親や先祖の偉業を偲ぶために仲哀を名目的な初代に置いたにょ。そして歴史の綴られる後世の女性天皇の時代なって、女性天皇の正当化のために神功皇后が生み出されたにょ。

 ……というのはあくまで個人的な思索の遊びの産物だけど、王朝交替説としてはあながち悪くはないと思うにょ。記紀の成立した時代背景、日本武尊と神功皇后の存在というのはそれなりに考慮がなされるべきものだと思うにょ。

日本国紀
幻冬舎
2018-11-12
百田 尚樹


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教育勅語を現代語訳してみたにょ

 定期的にポリティカルコレクトを弁えてない無能政治家が不用意に口にし、アホウヨ明治原理主義者たちが手放しに賞賛し、アホサヨ反日活動家が脊髄反射的に罵り叫ぶ話題の一つが、この教育勅語にょ。
 あすかは教育勅語そのものには何の感情も抱いていないので、歴史の資料程度なら学校教育で触れるのには何の問題も無いと思うけど、これをそのまま道徳の教材に使うと言えば、そりゃちょっと待てとしか言えないにょ。

 まず、教育勅語が作られた時代と現代とじゃ社会背景が違うし、道徳に求められているものも違うにょ。そもそも(戦前は道徳教育に使われていたとはいえ)教育勅語そのものが道徳の教材として作られているようにも思えないからにょ。

 で、教育勅語の中身ってどんなものかってのを色眼鏡付けずに原文から現代語に訳してみたにょ。
 日本語の文章は文語表現とか大和言葉主体のかな文字表現とかで修飾表現がいろいろ違ったりするけど、江戸時代半ばから現代まで基本的なところはほとんど変わってないから、普通に読めば普通に意味がわかるにょ。

 私天皇が考えますところ、皇室の祖先が国を作り上げていくにあたって深く心がけていたのは、世の中に広く徳を行き渡らせることでした。
 臣民の皆が天皇によく忠義心を持ち、父祖に孝行心を持つことで、たくさんの心を一つにして代々美徳を持って過ごしてきたこと、これこそが日本の国の形の真髄であり、教育の目指すべきものがここに在るのだと思います。
 あなたたち臣民は両親を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は互いに仲睦まじく、友人を信じ合い、慎ましくして利己心を抑え、博愛の心を周囲に向け、教養を学び、技能を身に付け、それをもって知能を高め、徳を修め、率先して公益に尽くし、社会のための仕事を成し、常に憲法を尊重して国法に従い、国家の急務に際しては義勇心を持って、未来永劫続くこの国のために天皇を手助けしてください。
 このようなことを成し得た人は、その人ひとりが私の忠義な良き臣民であるのみではなく、あなたを育てた祖先の遺風をも顕彰するに値することです。

 こういう臣民の在り方は、まさに皇室の祖先の残された訓えであり、その子孫である私が臣民であるあなたたちと一緒になって遵守していくべきところです。
 このことを歴史を顧みて誤ることなく、これを場所を問わずきちんと実施し、私はあなたたち臣民とともに常に胸に刻みつけ、皆が徳によって一丸とならんことを真に願っています。

明治23年(西暦1890年)10月30日
睦仁(天皇御璽)


 これは何かというと、大日本帝国憲法の発布に合わせて(外見の基本規定である憲法とは別に)国民の内面的な心掛けの在り方を、こうあってほしいと教育にかこつけて語ったものだにょ。
 この時点で具体的に、これを暗記させて道徳教育に利用しようなんてことは端っから考えられてなく、どちらかというと、全国民に語りかけた上で、学校教育や家庭教育をする立場の人が考慮してほしいって感じにょ。
 はっきりいって、安直に生徒にこれを暗記させてる時点で、学校側の手抜きに他ならないし、教育勅語の目的そのものが失われてしまってるにょ。いつの世の中も下っ端官僚はアホで使い物にならないにょ。

 そもそも暗記を目的にしたものなら、誰だって箇条書きでもっと韻律を配慮した文章を作るにょ。例えば五箇条の御誓文みたいに。はっきり言って、こんな練れてない文章を暗記させられるのは苦痛でしかなく、意味まで頭に入らないにょ。

 じゃ、この教育勅語って何のために作られたのかというと、西洋におけるキリスト教的倫理観と同等のものを日本の国民に持ってもらうためだにょ。
 明治政府は近代化のために西洋のいろんな制度を導入して日本の近代国家を作り上げていったけど、その最終的な仕上げというのが明治憲法の発布だにょ。明治憲法にはドイツのビスマルク憲法が大きな影響を与えたと言われてるけど、ドイツに限らず西洋諸国の憲法の前提にはキリスト教的倫理観というものが不文律として存在してるにょ。ところが、キリスト教の伝統のない日本で明文化されただけの憲法を導入しても、それは絵に描いた餅で、実効性が伴わないことが危惧されたにょ。
 そこで、明治の元老はキリスト教的倫理観と同等のものを日本の国民に身につけさせるため、儒教的要素を取り入れた教育勅語を作ったのだにょ。
 だから、これは道徳教育の基本方針であって、けっして具体的な教材なんかではないにょ。だから、エッセイに近いような天皇の感想的な文章で綴られてるにょ。

 本来ならこの教育勅語をもとに、日本人にとってふさわしい道徳(倫理観)というものをきちんと研究して、そこから具体的な道徳教材を作るべきものなのに、その手間を省いて安直に暗記させることに終始したりなんかするから、昭和になる頃には中途半端な倫理観しか持たない連中が国家の高官に集まってしまって、負けがわかってる戦争にみすみす飛び込むというマヌケなことをやらかしてしまったのだろうにょ。

 あと、原文に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という部分があって、よく「国家の危機の際には天皇のために戦って死ね」とか解釈されるんだけど、これはそこまで直接的なもの云いじゃなく、「緊急事態のときには私事よりも国家のことを優先して助けてほしい」という程度の意味じゃないかと思うにょ。

酒呑童子伝説のスピンオフ ― なぜ誰も『金太郎』の物語を知らないのかにょ?

 ネットに次のような記事があったにょ。
「人魚姫」は最後どうなるか知っていますか? 意外と知らない昔話や童話のオチ - ねとらぼ

 この手の昔話や童話の知識の有無をネタにする記事が定期的に出てくるけど、定番的に誰も知らないのが『金太郎』だにょ。
 一口に昔話や童話と言っても、その種類にはいろいろあるにょ。

 まずは『イソップ寓話』みたいな古典説話。記事で触れられてる中では『ウサギとカメ』がこれに当たるにょ。個々の物語は昔からの言い伝えであったり、誰かが子供に言い聞かせるために考えられたものだったり、由来は様々だろうけど、古い時期に子供の道徳的教育の材料としてまとめられたものがそのまま伝わってるものだにょ。
 これはその話の材料が、寓話の目的である道徳的意味合いと深く関わっているから、けっして内容が変えられたるすることはないにょ。『イソップ寓話』は古代ギリシャ時代のアイソポスという人がまとめたとされるほぼそのままの形で今に残ってるにょ。

 次に『アンデルセン童話』のような近代以降の創作童話だにょ。記事で触れられてる中では『人魚姫』がデンマークの童話作家アンデルセンによって創作されたものだにょ。これは童話云々以前に作家の作品として(作品の同一性など保証する)著作者人格権が尊重されるべきものなので、すでに著作権保護期間が切れた作家の作品といえども、用意に改変されたりしないにょ。

 そんなわけで、『イソップ寓話』や『アンデルセン童話』のような作品は物語の形が固定化されて存在しているので、その物語を知ってる限りは、その結末は固定されたイメージでしっかりと記憶されるにょ。

 さて、昔話や童話には上記とは違うタイプのものも多いにょ。それは、昔から口碑伝承として伝えられて来たものが、何らかのタイミングで文章にまとめ上げられ、定型化した物語として流布されるようになったものだにょ。代表的なものはドイツの民話をまとめた『グリム童話集』とか、日本の伝承を集めた中世の『御伽草子』とかに集められた物語だにょ。
 記事で触れられてる中では『舌切り雀』がこれに当たるかにょ。『舌切り雀』の物語自体は『御伽草子』より古く『宇治拾遺物語』に収められた説話「腰折雀」に由来するようで、今のようにお土産の葛籠を貰うという形になったのは江戸時代以降のようだけどにょ。『宇治拾遺物語』は説話文学と言って、仏教関係で教えの摂理をわかりやすくするために集められた物語だから、本来の目的で言えば『イソップ寓話』に近いものがあるのかもしれないけど、そういった目的は失われて説話の中身だけが残ったものだろうにょ。
 このタイプの昔話とか童話は、元が口碑伝承の収集であるから、作者が判明してるようなものはほとんどなく、著作権とかは関係ないし、そもそも収集された文献の成立年代が古ければ古いほど、再び口碑伝承化していってしまうものも多いため、時代の変遷や語り部によって様々にバリエーションが生まれてくるにょ。
 それでも、『ペロー童話集』みたいな後世に非常に影響を与えるような決定的な文献としてまとめられたものは、そこに記された物語が定型的な形として残されるにょ。(例えば『シンデレラ』の物語は後にグリム兄弟がドイツで同様の伝承を採集しているけど、現在の『シンデレラ』のイメージは概ね『ペロー童話集』のものだにょ)
 日本の昔話の場合、『御伽草子』自体も時代時代によって書き換えられてるため、明治以降に国定教科書や児童向け書籍としてまとめられたものの影響が大きいにょ。

 ところで、『金太郎』の物語はこれまでに述べた3つの、どのタイプに当たるだろうかにょ?

 結論を言えば、どれにも当てはまらないにょ。そもそも昔話や童話として定着する以前の存在でしかないにょ。
 この『金太郎』の物語は何かと言うと大江山酒呑童子伝説のスピンオフ作品だにょ。

 たいていの人は『金太郎』というと「まさかりを担いで」とか「クマと相撲」というイメージがあると思うけど、これは明治に作られた童謡の『金太郎』のイメージだろうにょ。で、この童謡の『金太郎』はその足柄山でクマと相撲してる金太郎を歌ってはいるけど、それ以外の物語は歌っていないにょ。つまり童謡しかしらない人にとって、『金太郎』とはその部分の存在でしかないということだにょ。
 そりゃ、金太郎が坂田金時という人物の幼名だという知識があって、そこから源頼光や酒天童子に行き着く人も多いだろうけど、そこから金太郎の物語がどんなものかを想像できる人はいないと思うにょ。

 この『ねとらぼ』の元記事を書いた人はネットで検索したりして明治なり戦前に子供向けに書かれた『金太郎』の物語を他の昔話や童話の物語と同様だと思ってるんだろうけど、普通に読めば違いがあるとわかると思うにょ。
 Wikipediaの『金太郎』の項目にリンクされてる『青空文庫』の『金太郎』は、楠山正雄という人が大正年間に出した『日本童話宝玉集』(の一部を再収録した講談社学術文庫の『日本の神話と十大昔話』)に収められてるものだにょ。
 ここに収められてる『金太郎』の物語は、クマと相撲して力を鍛えた金太郎が源頼光の家臣の碓井貞光の目に止まり、都に行って頼光の家臣の四天王の一人になったというお話にょ。他の昔話と比べると大きく違うのは、ラストに実在の人物の名がゾロゾロと挙げられて、金太郎との関係性の説明に終わってるところにょ。

 昔話とか童話というのは基本的に「いつ」という時代性や「誰が」という具体的個人性が曖昧に抽象化されているものだにょ。そうでない、時代や人物が具体的だけど物語そのものに信憑性がない言い伝えは「伝説」と呼ばれるにょ。つまり、『金太郎』の物語は昔話や童話ではなく「伝説」の範疇に含められるものということにょ。
 まあ「伝説」に含められる物語であっても、そういう具体的情報を失って抽象化され、昔話になっていくものもあるにょ。『浦島太郎』の物語も『日本書紀』が編纂された頃にはまだ具体的な年月が語られる「伝説」だったみたいだにょ。

 そんなわけで、『金太郎』の物語は大江山の酒天童子伝説で頼光の家臣として活躍する坂田金時の由来を語ったスピンオフの「伝説」ということだにょ。源頼光というのは清和天皇の孫で清和源氏の祖とされる経基王の孫に当たる実在の人物であり、頼光四天王の他の3人も実在したらしいけど、坂田金時は伝説上だけの架空の人物らしいにょ。架空の人物だからこそ、その由来がスピンオフで語られるようになったのだろうにょ。

 頼光四天王としての坂田金時の存在が語られるようになったのは早く、頼光の時代から100年後ぐらいからみたいだけど、スピンオフとしての金太郎の物語は江戸時代になってからみたいだにょ。
 戦乱の時代が終わって平和になった江戸時代、武家の家庭で子供に武芸の鍛錬に興味をもたせるために語られ始めたのが最初で、歌舞伎や浄瑠璃で頼光四天王の物語が広く知られるようになってから庶民に広まっていったのかにょ。ま、この金太郎の物語は頼光四天王の知識がないと意味不明で終わってしまうからにょ。
 富国強兵を目指す明治~戦前の社会でも、その金太郎のイメージは重宝されただろうにょ。童謡の『金太郎』はその時代の産物だけど、この歌だけでは金太郎の物語はわからないにょ。背景に「伝説」を元にした物語(楠山正雄の『金太郎』のようなもの)の知識が広まっていたことが前提のはずにょ。

 auのCMの三太郎のように『金太郎』が『桃太郎』『浦島太郎』と並べられる存在として扱われるのは、このような戦前の『金太郎』の記憶に基づくものだろうにょ。
 しかし、現在では『金太郎』の物語は知られていないにょ。キャラクターじゃなく昔話としての知名度から三太郎を選ぼうとしたら、『金太郎』じゃなくて『三年寝太郎』が入ると思うのは、単に現代人が怠惰でグウタラだからではないだろうにょ。

 なぜ『金太郎』の物語が知られていないかというと、それは戦後、家庭でも学校(幼稚園)でも『金太郎』の物語が語られなくなったからだにょ。戦前、『金太郎』に期待されていた富国強兵の象徴としてのキャラクターは戦後の平和教育にはそぐわなくなったにょ。
 それだけなら『桃太郎』も同じ運命を辿りそうだけど、決定的な違いは『桃太郎』がすでに昔話として完成した独立した物語であるのに比べ、『金太郎』は酒呑童子伝説のスピンオフとしての「伝説」の域を脱しきれてなく、これを語るためには酒呑童子伝説の本体をも語らなければいけないという面倒臭さがあるにょ。また「伝説」であるが故の実在人物の登場によるリアル性が敬遠される要因だったかもしれないにょ。

 しかし、なぜか戦後も童謡の『金太郎』だけは残ってしまって、戦後生まれの日本人が『金太郎』として触れる物語は、この童謡の歌詞だけになってしまったにょ。確かにクマと相撲するだけで終止する物語なら「伝説」としてのリアリティもないし、富国強兵にも結びつかないだろうから、この童謡を意図的に排除する意味はなかったのだろうにょ。

 ……とか書いてるとアホウヨ明治原理主義者たちが「正しい日本のために『金太郎』の物語をちゃんと教えろ」とか言い出しそうな気がするけど、そんなものは自然に任せればいいだけの話にょ。日本人に本当に必要な物語なら、「伝説」的なリアリティを削ぎ落とされ、単独の物語として洗練された「昔話」として生まれ変わり、『桃太郎』のような超メジャーな存在ではなくてもそれなりに生き残っていくはずだにょ。


金太郎
楠山 正雄
B009LSTR06

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楠山正雄 金太郎

八幡和郎の難癖から江戸時代を弁護するにょ

 八幡和郎という人がいるにょ。何者かはよく知らないけど、元官僚でアゴラにヨタ記事書いたり歴史関係の本(といっても学術書じゃなく一般向けの読み物)を出してるにょ。ま、神の啓示を受けて古代史の謎を解き明かしたり、歴史上の人物の子孫を名乗って歴史的大事件の真相をもっともらしく語ったりということをしてるわけじゃないので、ま、あまり胡散臭さはないにょ。
 とは言え、この人にはとりわけ顕著な偏向が見られるにょ。江戸時代をとことん貶して、明治を手放しに褒め称えるにょ。まるで明治維新を正当化するために江戸時代を完全否定した戦前の皇国歴史観そのものみたいだにょ。

 ま、この人の名前を知ったのは、ずっと前に戊辰戦争の際に全国の各藩はどうだったかというようなことを書いた本(『江戸三〇〇藩 最後の藩主 うちの殿様は何をした?』)を読んだときにょ。そういう視点で(全てではないにしろ)各地の大藩から小藩まで網羅的にまとめたようなものは読んだことがなかったから興味があったにょ。
 しかし、中身を読んで幻滅したにょ。そこにはただひたすら、薩長に付いた藩主は英邁、幕府側に付いた藩主は凡愚と、それだけで評価を決めつけてる文章が書いてるだけだったにょ。その他の藩政の事績とか藩主自身の人柄とか、まったく考慮はされないにょ。

 あすかも江戸時代が手放しで褒めるほど良い時代だったとは思わないし、(一般的に時代が下るにつれて社会は良くなっていくという当たり前のことから)全体的には江戸時代より明治のほうが良い時代だろうとは思うけど、かといって江戸時代が悪の権化のように全否定されるものかと言えば、大いに疑問を感じるにょ。

 その八幡和郎がまた江戸時代を一方的に貶す記事をアゴラに書いてるにょ。あまりに胸糞悪いから、あんな記事を盲信するリテラシーの低い読者がいてはいけないので、ここでツッコんでおくにょ。

江戸時代の不都合すぎる真実 ベスト10

①鎖国のせいで軍事力が低下し植民地にされかかった

 結果論に過ぎないということは言うまでもないにょ。西洋列強が軍事力を劇的に進化させたのは産業革命以降に過ぎないにょ。鎖国を始めた時点でそんなパラダイムシフトが起こるなんてことは世界中の誰も考えていなかったはず(レオナルド・ダ・ヴィンチあたりは予想してたかもしれないけど)にょ。
 産業革命が起こった後も蒸気船が実用的に地球規模的な交通手段として使われ始めるまでは、そういう文明の技術もそう簡単には伝達しないにょ。仮に鎖国してなかったところで、日本に産業革命が伝わる時期がそんなに早かったとは思えないにょ。幕府だってオランダからの情報で蒸気船等の知識はあったけど、現物の調達は早くてもペリー来航の10年以上前には不可能だろうにょ。
 なまじ、西洋の近代文明は19世紀中頃から飛躍的に進んでいくから、その最中の幕末開国の時点の文明差が極めて大きく見えるけど、時間的な差を捉えるとせいぜい数十年しか違わないというのは、岩倉遣欧使節が欧州で認識した通りだと思うにょ。

②科学技術も300年遅れたままだった

 産業革命以前の西洋だって科学技術がそんなに進歩していたわけではないにょ。そもそも西洋文明を一方的に基準にして遅れてる遅れてないという価値観自体が、西洋文明が世界中を覆い尽くした19世紀末か20世紀初頭以降のものだということを忘れてはいけないにょ。
 江戸時代の日本が、オランダからの情報でその知識を得ながらも、西洋的科学技術を盲信的に導入しなかったのは、東アジアにおいてそれが必要なかったからだにょ。必要になったのは、その科学技術で武装した西洋列強が東アジアに襲いかかってきたアヘン戦争とかペリー来航以降の話でしかないにょ。

③国民の大半は引っ越しも旅行も禁止の半奴隷状態だった

 こういうのを単純に比較するのは卑怯というものにょ。江戸時代は地方独立の封建制度であって住民統治は藩や所領毎に行われていたにょ。しかも統治者の経済基盤が土地から上がる収穫物なのだから、領民である農民に逃げられては困るので移動に制限を付けたにょ。
 一方、明治時代は中央集権の一括統治で、統治者の経済基盤は各戸に対する課税であって、その課税の元の所得の手段は何でも構わないから、税金を払ってる限り国内の移動は自由になったということだけだにょ。
 江戸時代は何も住人を虐げるために移動を制限していたというのではないにょ。

④女性差別と部落差別は江戸幕府が創り出した

 部落差別はさておき……
 幕府が朱子学を採用したから女性差別につながったとか言うのは何かの妄想ですかにょ? そりゃウーマンリブとか男女雇用機会均等法とかそういう時代の価値観から見ると、確かに男女の平等が確保されてるとはとうてい言えないとは思うけど、かといって当時の諸外国での男女差とか、あるいは歴史的なものを見ても、江戸時代だけ特筆的に男女差別が進展したとかいうような印象はどこにもないにょ。
 こういうのは歴史家気取りにありがちだけど、儒教に支配された中国や朝鮮がそうだから日本もそうに違いないという思い込みに過ぎないにょ。儒教が社会規範として機能した中国や朝鮮と違って、日本ではあくまで道徳の範疇にとどまってるにょ。ただ、一部の狂信者が水戸学を生んだり勤王の志士になったりして、幕末のテロリズムに走っていったのは確かだにょ。

⑤武士道は明治時代に新渡戸稲造が捏造した

 ま、これは概ねそのとおりだと思うけど、武士階級にもちゃんとノブレス・オブリージュとか意識してる層はある程度いて、そういう人材が幕末の困難期の日本を支えていたことも否定はできないと思うにょ。
 新渡戸の創作にしたってまったく種もないようなところから嘘をでっち上げたりするような見え透いたことは出来ないだろうにょ。

⑥教育レベルは低く識字率が高いというのも嘘

 江戸時代の識字率が過大評価というのはそのとおりかもしれないけど、ひらがなの識字率を漢字しか使えない中朝の識字率と比べて貶すのなら、26文字しかないラテン文字を使ってる西洋諸国と比べてどうなのかという点に触れないのはどうかと思うにょ。(欧米語は単語単位で覚えないと意味がないとかいう反論は無しだにょ。日本語だって単語の語彙がないと文章の読み書きはできないにょ)
 たいていの武士は九九が出来なかったとか言ってるけど、そりゃ必要がないだろうからにょ。逆に商人とかなら九九の出来ない連中など(丁稚とか除けば)いないだろうにょ。むしろ科学時代の現在の文系大卒でエリート気取りの連中が高校数学どころか中学レベルの数学すら出来てないことの方が大問題にょ。

⑦下級武士から上級武士になるのすら不可能に近かった

 ま、江戸時代は(というか、それ以前からずっと)「家」で格が決まっているのが日本の社会だからにょ。例外は下剋上の横行した戦国時代にょ。とはいえ、それは武士身分の中での話。朝廷から官位を貰おうとか思ったら家系図を捏造するとかして「家」の格を上げる必要があったにょ。
 八幡和郎が江戸時代(というか徳川家)を貶す代わりに持ち上げてる豊臣秀吉だって、木下藤吉郎とか羽柴秀吉のままだったら関白にはなれてないにょ。あれは摂関家の近衛前久の猶子となることで「近衛家」の人間として関白になれたにょ。
 つまりは、自分の「家」の格を上げることは不可能だったけど、養子などの手段で格上の「家」に変わることは江戸時代だって(日常茶飯事的ではないにしても)普通に行われていたにょ。

⑧北朝鮮なみに禿げ山だらけで環境先進国は嘘

 人里近くの山がほぼ針葉樹の人工林だらけなのを見れば天然の山を保持してきたわけではないのは確かだと思うけど、いくらなんでも紀伊半島とか奥飛騨や信州の山奥まで禿山だらけってことはないと思うにょ。
 ただ、本当に禿山だらけだったら短期間で森林が復活するとは思えないにょ。江戸時代に禿山だった場所って、明治以降に開発されて、今じゃ住宅地とかに変わってるんじゃないのかにょ?

⑨北朝鮮と同じように餓死者が続出

 これも比較が卑怯。まず江戸時代は鎖国もあるけど、それより運搬手段が未発達だし、世界中でも食糧余りの場所なんてほとんどないから、飢餓が起こったからって食糧を輸入して対応するとかいうことは無理にょ。金正恩がその気になればいくらでも援助を受けられる現在の北朝鮮とは違うにょ。
 まず現在のレベルの運搬業の基盤が出来たのは蒸気船が世界中に航行できるようになった19世紀半ば(幕末開国の直前)というのは理解しないといけないにょ。さらに飢餓の原因も北朝鮮のような自然破壊が原因の恒常的なものじゃなくって、純粋に自然現象や気候変動による天候不良によるものだから予防のしようがないにょ。

 あと、卑怯なのは江戸時代だけ切り取って悪し様に罵ってること。江戸時代に多くの犠牲者が記録されてるのは、それは統治者がちゃんと災害を把握して被害を調べてるからにょ。それ以前の時代は庶民が飢餓に苦しもうが統治者は関知せずに放置とかだったから、大雑把な被害が伝聞で書かれたりしても、統治者自身による詳細な調査記録は残らないにょ。律令制の当初は朝廷が全国の領民を支配する建前だから、ある程度の状況は把握してたかもしれないけど、荘園制の発生によって律令制が形骸化すると中央の朝廷や貴族は庶民のことは何も考えなくなったにょ。ま、それが武士が誕生する要因の一つだけどにょ。
 江戸時代だって初期の飢饉については幕府も何も手の打ちようが無かったけど、幕末の天保の大飢饉の頃になるとある程度の備えで多少は対応できるようにはなってるにょ。
 明治以降に顕著な飢餓が発生してないのは、世界的な海運網の成立で食糧輸入が可能になったのが大きいのと、あとはハワイやブラジルへの移民政策で国内の口減らしが出来たからだにょ。

⑩裁判や警察制度が不十分で切り捨て御免も伝説ではないし、サドマゾ刑罰に拷問もやり放題

 そりゃそもそも西洋の制度を持ち込んだ明治以降の警察や裁判制度と江戸時代以前のそれらの制度は根本的に基本理念が違う別物なのだから単純に比較してはいけないにょ。
 武士というのは古代の律令制度の崩壊で警察制度や裁判制度が機能しなくなったから、それを代行するために自然発生的に生まれてきたものだにょ。つまり、大雑把に言えば本来は武士そのものが警察官や裁判官の代わりということにょ。
 武士の権限が肥大化して行政全般にまで及ぶようになると、警察や裁判に関わる武士というのは限られてきたわけだけど、基本的に武士はそういう調停側の立場にあるというのが武家統治社会の建前だにょ。
 あと、明治のドイツ式司法制度のような何でもかんでもガチガチに法律で決めてあるなんてことはないから、裁判の結果は奉行なり代官のその場の判断に委ねられる部分が大きい。そりゃ近代的な司法制度から見ると野蛮に見えるかもしれないけど、その場の空気を読んで判決を下すというのは日本的な社会には不都合がないにょ。問題になるのは空気を読まない判決が出たときだろうにょ。

 斬り捨て御免はどうかにょ。江戸時代の初期には大名の取り潰しの理由に挙げられたりしてるし、徳川綱吉が生類憐れみの令を出したのは、そういう戦国時代からの機運を一掃しようというのが目的だったと言われてるから、戦国時代から間もない頃はそれなりにあったのだろうとは思うにょ。
 ただ、江戸時代が下るに連れて貨幣経済が支配的になり庶民文化が発展してくると相対的に武士の立場が弱くなってくるので、そうおいそれとは斬り捨て御免など出来なくなってくるにょ。だいたい、太刀の鞘の中が竹光とかだったら、いくら相手が無礼でも抜くに抜けないのも確かだにょ。
 ま、社会がきな臭く物騒になって、それこそ庶民が斬り捨て御免の危険を感じざるを得なくなったのは、幕末に薩長のテロリストが徘徊するようになってからじゃないのかにょ。


 人類社会の歴史というのは制度的改善の歴史であるから、前の時代より後の時代のほうが良くなっているというのはある意味当然のことにょ。しかし、前の時代のほうが劣っているのは(観念や知識や技術、その他いろいろな環境要因がその段階にまで至っていないという)時代的制約によるものも大きいという理解が必要だにょ。
 ただただ後世の感覚だけで過去を悪し様に罵るというのは、祖先の墓を土足で踏みにじるようなものだにょ。

 それでも無条件に江戸時代は最悪で明治時代は最高とかいうのなら、ひとつ言っておくにょ。江戸時代の庶民は事件にでも遭わない限り、ほとんどの人が一生の間に武器を使ったり他人を殺傷することとは無関係だったにょ。しかし、明治になって徴兵制度が出来ると健康な男子は徴兵され、戦争が起これば否応なく敵の兵士に対して武器を使って殺傷することが強要されるようになったにょ。これが手放しで褒め称えられるようなことですかにょ?

 この八幡和郎という人はどうして江戸時代を貶し明治ばかり褒めそやすのだろうかにょ? ネトウヨだとか勤王家だとかいうのとはぜんぜん違うと思うにょ。
 おそらく東大卒のエリート官僚とかいう本人が一番自慢してる「権威」の由来が明治維新で成立した近代の官僚制度であるから、その「権威」を維持するためには明治維新が何ら欠陥のない素晴らしいものでなければならないと思ってるのだろうにょ。そのためには「江戸時代のほうが良かった」なんてことが一つたりとも有ってはいけないにょ。だから懸命に江戸時代を貶して否定し続けているのだろうかにょ。

文系エリート様の統計記事を鵜呑みにしてはいけないにょ

 数字があれば信憑性が高いと思ってるのか、何かと我田引水に都合の良い統計を持ち出してくるのは公務員の作文と文系バカエリート様のネット記事だにょ。
 ま、公務員の作文なんかは故意に結論を捻じ曲げるために意図的にやってるのがミエミエだからここでは論じないにょ。一方、文系エリート様のネット記事には意図的なものもあれば、そもそも統計の意味を理解していないからマヌケな結論に至ってるというものも多いにょ。

 今回取り上げる例も、故意にやってるなら相当にしたたかだと思うけど、多分に統計の意味を理解してないという可能性の方が遥かに高いと思うにょ。


   「両親の身長が高過ぎる」と心配している女の子へ


 記事では正規分布について触れた後で、日本人の身長の統計が正規分布であるという前提のもとで、極端に身長の高い人や低い人は極めて少なく、多くの人は平均値から標準偏差の範囲内に収まり、「平均値への回帰」があるから、両親の身長が高過ぎてもその娘はその標準偏差内に収まる可能性が高いとかいうようなことを言ってるにょ。
 ま、賢明な人にはこれだけでいろいろとツッコミどころがあることがわかると思うにょ。

 そもそも正規分布というのは、「サイコロを100回振って出た目の合計」とかいうように個々の目の出現確率がどんな場合でもイーブンで、目の合計というサンプル値が最終的な平均値付近でメジャー値を取る場合、そのサンプル値を1000回とか10000回とか数多く取った時に理想的に出現する統計傾向に過ぎないにょ。
 日本人の身長なんてものは平均値付近に収束することが科学的に保証されてるわけではなく、ただ、1億人ぐらいのサンプルと取ったらいろいろな個々の条件が相殺されてしまって、現象として正規分布に近いような統計結果になってるだけの話だにょ。
 つまり、身長の統計が正規分布を示しているとしても、それは日本全国のサンプルを集めた上での全体的な傾向を示しているだけであって、遺伝的に身長の高い一族とか逆に身長の低い一族が存在しないということを示してるわけではないにょ。

 文系の統計記事によく見られる誤解として、統計結果を確率的保証値と取り違えてることが多いけど、この記事の趣旨もそういう誤解から来てるところが大きいかにょ。統計結果はあくまで、サンプル集合が示す全体的傾向に過ぎないのであって、個々のサンプルの値として保証されてるものではないにょ。
 身長の統計で言えば、これは何の条件もなく単に日本人全体の身長を集めた全体の傾向を示してるだけであって、「両親の身長が高過ぎる」という条件を加味した場合のことなど何も示していないにょ。

 この統計結果としての傾向と保証値は違うということの一番わかり易い例は、スマホゲームとかのガチャの確率かにょ。あるレアなアイテムの出現確率が0.1%であるとした場合、1000回ガチャを回した人が1000人ぐらいいたら、統計的にはそのアイテムを1人1個獲得したというような結果になるだろうにょ。ただし、これは1000回ガチャを回せば誰でも必ず1個獲得できるというわけではないにょ。数個獲得できる人もいれば、獲得できない人もかなりの数いるだろうにょ。
 これを保証値とするためには、ガチャの有効回数を全1000回に固定し、その1000回中に必ずそのアイテムが出る仕掛けが必要だにょ。確率とか統計結果とかはあくまで傾向を示すだけであって、結果の保証にはそれなりの仕組みや理屈が必要だにょ。

 ここまで書けば「平均値への回帰」というのが意味不明というのがわかるだろうにょ。統計というのは全体傾向を示すだけであって、個々のサンプルに何か作用するものではないにょ。サンプルが数多くあれば、平均値に近いものが全体として多くなるというだけであって、特定の値を平均値に近付けるような現象はどこにも発生しないにょ。
 以上は単純に数学としての統計学の話だけど、人間の身長(それも統計平均とかじゃなく具体的個人の身長)とかいう話だと、統計なんかよりも遺伝子とか生活環境とかそんなものの影響の方が遙かに大きいのは自明だにょ。身長が高いのが優性遺伝であるなら、両親ともに高けりゃ娘が高くなる可能性は大きいだろうし、貧困で栄養失調を起こしてるような生活環境なら十分に成長できずに平均よりずっと低い身長になるかもしれないにょ。

  
高身長同士男女の子孫と低身長同士の男女の子孫に「平均値への回帰」が生じなければ、現代でも高身長族と低身長族に二分化しているはずだ。


 身長差による統計上の分化が生じていないというのは、確かに「平均値への回帰」というような現象が起きているのかもしれないけど、それは統計的作用ではないにょ。単に高い人同士や低い人同士の結婚だけで子孫が作られてるわけじゃなく、何十世代も経れば各世代の身長的特徴なんて誤差に過ぎなくなる程度のものでしか無いということを示してるだけだろうにょ。
 統計に精度を求めるには一定以上のサンプル数が必要なのと同様、遺伝的傾向を統計で語るにはそれなりの世代数を経た上でないと意味がないにょ。そして統計は傾向を示すだけで結果を保障するものではないにょ。何百年何千年とかいうスパンでの身長の統計傾向を(きちんとしたサンプルを示した上で)語るならともかく、「両親の身長が高過ぎる」という女の子個人の身長を語るには何の根拠にもならないにょ。

 ま、実際のところ身長が高いのが優性遺伝なのかどうかは知らないけど、統計とか持ち出してくるなら、「両親の身長が高過ぎる」という限定条件を踏まえた上での統計資料を持って語るくらいの誠意は示してほしいものだと思うにょ。
 ということで、統計を根拠として持ち出してる記事だからと鵜呑みにするようなことはやめたほうが良いということだにょ。

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